笑いのカイブツ 絶望、絶望、絶望その先にはなにがある
この本の中には天才でありながらも、絶望しかないツチヤタカユキのことが書いてある。
本の9割が絶望だ。
劇薬を試したい方は読んで欲しい。
お前のカイブツはなんだ
誰も自分の内側に存在しているカイブツ。
どうしようもない、汚い、暗い、絶望と思われるものを抱えている。
僕が思う人間の価値は、人間からはみ出した回数で決まると思っている。そして僕は、その回数で圧倒的に負けていた。
クレイジーな生き方、破天荒な生き方に人々はいつの時代でも憧れを持つ人は多い。
若い人ならなおさら憧れるだろう。
だが、人間からはみ出す行為というのがなかなか難しい。
はみ出すことが勝手にできる人もいるが、どうしてもできない人もいる。
社会という、人間が作り出した正義の中にとどまることができるのならば、その人は普通の人間ということであり、
はみ出すことができるものだけが、人間を超越し、人間の価値を作ることができる。
ツチヤタカユキは「ケータイ大喜利」でレジェンドを目指す為に1日にボケを2000千個作ることを課した。
毎日脳がとろけるまでに作り続けた。
それによってレジェンドになれたが、常にボケしか思いつくことができないほどになってしまった。
人間関係は得意ではなく、それによって様々な障害が立ちはだかる。
どうしようもない。
構成作家として入ったよしもともクビになってしまう。
よしもと、というお笑いの世界も結局人間関係が大切で媚びを売ってうまくやっていくやつがデビューする世界だった。
誰よりも努力し、誰よりもおもしろいボケを作ることができるが、世の中には認められない。
日々悶悶としながら生きる。まさに地獄。
地獄というのはいつもすぐ目と鼻の先にあって、生きるということは、そこに飛び続ける瞬間の連続だと思った。地獄、そしてまた地獄、そこから先も地獄はきっと、ずっと永遠に続く。どこにも行きたくないけど、ここにとどまりたくもないから、目の前に広がる地獄の中に飛び込んでいくしかない。
絶望が覆う世界では地獄の日々を過ごさなければならない。
毎日毎日笑いを感あげ続けるも世間は認めてくれない。
人間不適合者はこんなにも生きづらい。
笑いを考え続けた人から学ぶお笑い
人を笑わすことには大きな価値がある。
人間笑っていれば楽しくなるものだ。
だが笑わすということは簡単なものではない。素人の笑いもあるが、プロとしてのお笑いの世界は難しい。
そのプロのお笑いを作り続け、分析し、考え続けた人に、本当のお笑いとはなにか学ぶ
ことはたくさんある。
笑いの本質とは、人間の道理の正しさを的確かつ盛大に破壊することにある
お笑いとは正しさ、道徳観、社会的風習、などを知っていてそれを破壊することで、笑いが生まれる。
だからこそ、しっかりとした礼儀、正しさを知っていなければならない。
お笑い芸人とはどんな時でもふざけている、だらしない、礼儀を知らない。そんなイメージがあるかもしれないが、売れている芸人こそそっかりとした礼儀をわきまえている。
問題になるyoutuberのように、ただふざけたことをするのはショーもない笑いだ。
そのんなの程度の低いお笑いはいらない。
もっとレベルの高いお笑いをするには正しさを知ることが必要だ。
「今の芸人は、ほとんどが競技用やねん。養成所に行って、ライブに出て、ネタを磨き、賞レースの決勝残って、テレビに出て、平場でオモロイって所を見せて、売れるっていう競技に参加しているだけの、ただのおっさん」
今のお笑いの養成所には何千人という人が入ってきます。
本気でお笑いの勉強をするために。
だがお笑いとは勉強して作るものなのか。
その笑いには機械的な感じが出てくる。
もっと簡単に人を笑わすことが必要ではないか。
その人の生き様が大切なのではいか。
生き様はその人に表れます。
作られた笑いで活躍する芸人は少ないように感じる。
人気の芸人と言われる人の生き方は共通しておもしろい。
まとめ
この人の文章には哀しみ、喜び、絶望、嫉妬、がすべて詰め込まれている。
読んでいて人間の普段表面には出さない、暗い塊が現れてくるような感じがする。
人間は明るいところだけではなくて、暗いところもみんな持っている。
もっと人間なんてショーもないんだと知るべきだ。
正しさに縛られて身動きが取れない方、落ち込んでいる方、人生ってなんだろうと考えている方、みんなに読んでもらいたい。
特効薬にはならない、救いにはならない、でもこれだよなと心に刺さります。
「ディストラクション・ベイビーズ」を見ての感想
狂気が渦巻いているそんな映画でした。
ほぼ柳楽優弥は人を殴っています。
何かを感じる取る映画というよりはただ映像を見て感情をそのままさらけ出せる。
あまりにも主人公は自分の狂気ともいえる感情をそのままに出していて、そこまで人殴るかってほど殴ります。最後まで。
映画だからできることですけど。なんだかすっきりしますね。こんだけ自分の思うがままに人殴って、やりたいことして生きるというのは。
今大人気の菅田将暉と小松奈菜が出てるんですけど。
この人達が見たいから安易にこの映画見に行くとまじで度肝抜かれると思う。
そんな生易しい映画ではない。
菅田将暉の演技はいうことないですが、
小松奈菜の演技がこの映画でなにか一つ開花したんではないかと思う。
きれいな顔をしていますが、特徴的な顔立ちをしている小松奈々がとても役柄に合っていて、この感じから繰り出される、狂気なとことか、エロさなどがとてもいい。
他にはない色気を感じる。
この3人が交わるとき狂気と狂気と狂気が交わるとき。そこには暗黒な世界に突入する。だがあまりにも主人公の狂気が大きすぎてほかの2人は飲み込まれた気がする。
主人公に便乗した形になっても途中で大きな狂気に飲み込まれてしまう。
主人公の闇は底しれない。
間違いなく問題作の映画だと思うが後に引かないグロさでなに僕はすっきりした。
あまりにも人を殴りすぎるので監督さんはどんだけストレス溜まってるのって感じた。笑
感情を押し込んで生きているなかでなんだか心が解放されるそんな気がした。
イスラム教について書いてみる 2
この人は一般人というのが重要です。
ムハンマドは570年頃に、現在のサウジアラビアのある、アラビア半島メッカの商人の家に生まれた。
幼い頃に両親をなくし、非常に苦労して育った。勤勉で誠実な商人だった。
ムハンマドの人生が変わるのは610年のことです。
いきなり体に衝撃を受ける、それはとてもやべえもので。
これなんだよ。と思い、あまりにつらいので、自殺を考えたほどつらかった。
しかし、それは神の啓示と気づく。
一神教の本来の姿
ムハンマドの教えは合理性、説明可能性を重視します。ムハンマドはあくまでも人間であり、神の僕に過ぎない。しかし、神の言葉を預かったことで、一神教の伝統を本来のものへと正す使命を担ったと。
一神教のキリスト教やユダヤ教は、少しゆがんだものとして成り立っている。
ルールが少しややこしい、しかし、イスラム教は一神教の本当の姿であるということです。
イスラム教がなぜ広がったのか?
アラビア半島は土地的に悪いところでいろんな国から攻撃されたり、税金をかけられたりして、みんなの不安や怒りが蓄積されていて、それが広がる土台になった。
他の一神教もそうだが、民衆がひどいことにあったりすると宗教が生まれるんだ。
人間はどこかに頼りたくなる生き物であるからなんだと思う。
ムハンマドが語ったこと
まずムハンマドが語ったのは、神の前の平等性でした。多くの人が貧富の差に苦しむなか、神の前では誰もが地位や収入にかかわらず、一律に服従する。
たとえば、断食の義務は、お金を持っている人もそうでない人もそうでない人も関係なく、誰もが行われなければなりません。非常に具体的な形で、平等をあらわしているのです。
どんな地位も平等に暮らす。ただ教義で言っているだけじゃなくて、行動としてみんなする。それが本当の平等ですかね。これが一神教の本当の姿なんですね。
イスラム教について書いてみる 1
この本を参考に書いています
これとても分かりやすいので気になった方はどうぞ。
イスラム教と聞くと悪いイメージが沸くと思います。
でもそれはただのイメージであって、それだけで判断するのはおかしいことです。
イスラム国(IS)の問題があり悪いイメージですがちょっと知るだけでイメージはすぐに変わるものです。
イスラム教で一番重要なことは「神の前での平等」です。
キリスト教には聖職者などの階級がありますが、イスラム教には階層などは存在せず、
みな「神の前での平等」の元に存在している。
7世紀のはじめに成立したイスラム教は、いろいろな意味で合理的であり、
信仰と日常生活との両立に無理が少ない宗教だという一面も持っています。
だからこそ、現代において世界のあらゆるところで16億人もが信仰しているのだといえるでしょう。
今どんどんイスラム教の人の割合が増えていてキリスト教の信者の数を抜くともいわれています。その理由には「神の前での平等」が大きな理由の1つと言えると思う。
このイスラム教の中には過激なテロなどを起こす人と多くの人々が穏やかに生活をしている人々がいます。それを「大文字のイスラム」と「小文字のイスラム」という例えで表します。
「大文字のイスラム」とは、非常に狭い意味で厳格化した教義です。
自分たちの解釈がすべてであり、それ以外の説明は認めず、排除する。
これがしばしば他宗教、他民族との衝突を生み、あるいは同じイスラム教であっても、他宗教に対する攻撃となってしまう。
「小文字のイスラム」は内面的な日常の信仰です。
「イスラム」とは「神(アラー)に対する絶対的な帰依」という意味ですが、日々神に祈りを捧げ、神と対話する。この「小文字のイスラム」からすると、その土地や民族によって様々な慣習の違いがあり、個人で職業も違えば、生き方も異なる。
多くの人は「小文字のイスラム」に生きているが少数の「大文字のイスラム」も存在する。この2つがあるということ。
多くの人は凶暴な「大文字のイスラム」の印象が強いためにイスラム教=悪。と思われがちですが、それは一部の人だということ。
ほとんどの人は「小文字のイスラム」に生きていているということです。
「何者」朝井リョウ 就活中の学生は絶対に見ないようにしましょう。
これは大学生は必ず読んだほうがいいです。
教科書にしたほうがいい。
そのくらいにおもしろい。
大学生が考えていることすべてここの本に書いてあります。
就活を中心に物語は進んでいき、その中で出てくる人間性がおもしろい。
これまさに就活している人にピッタリ当てはまる。
主人公はあまり就活に乗り気ではなく、一生懸命やっている人をツイッターなどで馬鹿にしている感じのやつ。こんな奴いるよなあって。
snsが普及し、さまざまな情報がある中で僕たちの就活はとても大変なものになってきている。
大学の大きなイベントである就活。
大学生というのは最初に遊び、そして4年になれば就活というイベントがいきなり始まる。これはとてもつらい。シフトチェンジできる奴もいるが、シフトチェンジできないやつもいる。
遊ぶことしか考えてないのに社会に出るという大きな門出が僕らには待ち構えている。
自由を振りまく大学という期間の中で就職という終わりがいきなり表れる。
就職をすれば自由はなくなり、縛りが生まれ、社会の歯車となる。そんなのが就職には充満していると思う。
だが周りに就職に対してなんにも不安もなく、ただ突き進める奴もいる。
こんな、自分の未来を信じて疑わない目が、日本全国そこらじゅうにある。それだけで、ぎゅっと心臓が小さくなる気がした。
自分には不安しかないけど周を見ればすごい自信がある奴もいる。
みんな不安だが、そう周りが見えてしまう。
いろんな不安を抱えて迎えればいいが、そのいろいろ考えた結果その不安が悪い方向にいくことがある。
就職サイトがオープンする12月1日が近づいてくると、就職活動は個人の意思のない世間の流れだと言い始める人が出てくる。自分は就職サイトに登録しなかったけど、というさりげない一言を利用して、自分は就職活動に興味がないちょっと変わった人間です、というアピールをしてくる人が出てくる。まるで興味、関心がないことが優位であるというような話しぶりで、「企業に入るのではなく、何者かである個人として生きていく決断をした」という主張をし始める人が出てくる。
こういう奴は周りにいるだろうか。
就活をしている人に対してただ小言を言ってるやつなんてなんの意味もないってこと。そう奴はどんどん取り残されていく。
結局一番すごいやつはどんなことがあっても前に進んで頑張っている奴が強い。
周りに流されず、ただひたすら進み続ける。
結論
なんにも言わず自分の目標に向かって努力し続ける。
動き続けること。
周りの奴なんてどうでもいい。自分のできることをする。
間違いなく面白いです。
ぜひ読んでいただきたい。
「この国のかたち」とは?
日本人を作っているものは島国という土地の造形が大きく関わっている。
島国に住んでいる、日本人は外の世界をすごいものと感じる。
外の世界が見えないからこそ想像する。
それが大きくイマジネーションに結びついた。
想像力が西洋と結びつき変化を与えた。想像力が日本を大きく変えた。
外の世界を崇拝し、感動を持つことも日本人の性格だ。
今の日本人の危惧することは無感動思想になることである。
これはとても危険な思想である。
すべてのものが満たされ、ものがあふれ、経済の成長は止まった。資本主義も行き詰まりをみせている。
成長という目標が消えている。なにを目標にすればいいのか分からなくなっている。
この世界はお金がすべてである。これは現実的なことである。お金を儲けることが一番にあるわけである。
今のこの世界の閉塞感をどうするか。これはとても大きな問題だ。
常に人間的な成長と人間にどのように幸せを分配できるかを考えなければならない。
それが世界に必要なことである。
日本の思想は無思想という思想である。だから神社と仏教を融合した。
自分の幸せはある程度上まで行くともうそれ以上求めても幸せは感じられなくなる。
次の幸せにつなげるには他人の幸せを考えることである。人間の細胞には他人に尽くすことで幸せになるということが埋め込まれている
自分の幸せプラス他人の幸せで次元の違う幸せになるのであるわけである。ここの境地にみなが達することで違う次元の世界になるわけである
幸せは一方方向だけではなく様々な方向に向いているわけでいろんな角度で刺激することで刺激された幸せはすごいもになる
「幸せになる勇気」 若者たちよ今こそ本当の愛を知ろうではないか。
前作の「嫌われる勇気」は100万部を突破し、韓国では49週1位という爆発的なヒットを記録した。
アドラーは競争することを大きく否定している、その思想が韓国の激しい競争社会にアンチテーゼを立てたからヒットしたんだと思う。
今回の「幸せになる勇気」では前作を踏まえてより深く話がされている。
より実践的なことが書かれていて、内容もそんなに長くないし、これからの生き方に影響を与える深い言葉がたくさんある。
そこでこの記事では「愛」についてアドラーの考えを書きたいと思う。
愛は落ちるものではない?
一般的な愛は2つある。
相手のことを崇拝して、けがれを許さないとてもきれいな人として見る愛。
相手の容姿に性欲が湧き、性的なものに駆られる愛。
これは誰にでも分かる気持ちだと思う。
でもそれは「観念的」と「本能的」愛ばかりである。
もう一つの「人間の愛」をだれも知らない。
この「人間の愛」とはなんなのだろう。
「愛とは。一部の心理学者たちが考えているような、純粋かつ自然的な機能ではない」
愛は本能的に、運命的に定められていると思っているが、それは違う。
愛は「築きあげるもの」である。
これを知らなけれ一番大切な「愛すること」ができていない。
エーリッヒ・フロムはこう言ってます。
確かに他者から愛されることはむずかしい。けれども、「他者を愛すること」は、その何倍もむずかし課題である。
相手にずっと好きという感情を持ち続けるのは難しい。
どんなに一目ぼれで、大恋愛をした相手でも飽きることがある。
そして飽きたから別れる。これでは常に消費するだけの恋愛しかすることができない。
相手に対して気持ちを持ち続けることが難しいことか。
本当の愛とはなにか?
愛とは、「ふたりで成し遂げる課題」である。
しかし、われわれは、それを成し遂げるための「技術」を学んでいない。
学校や、会社など組織での人間関係は学んでいるが、2人だけで作る関係性は教えてもらうことはない。
2人で作るということは自分の幸せだけじゃなく、相手の幸せだけでもなく、「ふたりの幸せ」を作らなければいけない。
それは簡単なことではない。
愛とは二人の人間関係を作り、二人の幸福を作るということ。
なぜ愛することが幸福につながるのか。
ひと言でいえばそれは、愛が「わたし」からの解放だからです。
今まで自分中心で見てきた世界が「わたしたち」という世界に視点が変わる。
「自分」という自我が消える。
それにより幸福になる。
これで貢献感を感じることで幸福になることにも納得ができる。
相手に対してなにかすると幸せな気持ちになるという経験はしたことがあるだろう。
この行為に「自分」は存在していない。相手のことしか考えていないだろう。
これが自我が消えた状態だ。
自分の欲求だけを求めていては幸福感は少ないが、相手と共に作り上げる幸福はとても大きなもの与えてくれる。
愛とは決断すること。
「誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である」
結局運命なんてない、それは錯覚で、ふたりで作り上げた結果、運命という所にたどり着くだけだ。
だれでも人は愛することはできる、決断をすれば。
そこから二人の旅が始まる
本当の愛を探しに行く旅をしようではないか。
これは内容の一部です。
気になった方はぜひ読んでみてください。