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映画と本の感想をつづる。

映画と本の感想をつらつら書き留めていきます。

社会に出る前に知っておきたい日本社会の仕組み①

 

 

 

 

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これから社会に出ていく人に知ってもらいたい。

日本の社会の仕組み。

どうせこれから日本という荒波に流されるのだから、その波はどんなものなのか知っておく必要がある。

日本社会で勝ち上がりたいなら能力だけでは無理だ。人間関係、能力、運。このすべてがなければ勝ち上がることは難しい。

 

タテ社会の人間関係」を参考に考えていきたい。

これは社会に出る人には必須の教科書である。

 

 

 

 

国の社会構造その中でも個人と集団などの関係は時代が変わっても最も変わりにくい部分である。

目に見える、服や、食べ物など変わることはあるが、目に見えない人間の中身は変わることは難しい。

だからこの先日本の個人や集団の関係性もこれからもあまり変化はみられない。

目に見えない人間関係をこれから見ていく。

この目に見えないというのがやっかいなものだ、見えないから惑わされる。

だがこういうものがあるんだとわかっているだけで少しは余裕が生まれる。

 

「資格」と「場」による構成

国の集団の構成は「資格」と「場」に分けられる

 

「資格」

共通性。個人を他から区別する属性(氏、学歴、地位、職業、男、女、など)を使うことで集団が構成される場合。

 

「場」

共有性。地域や所属している場所のように、資格の違いをとわずに、一定の枠によって、一定の個人が集団を構成している場合。

 

国の中にはこの2つは存在しているが、社会の中で資格と場がどちらが強いのか、どんな状況で資格と場のどちらを優先するのかを見る。

 

場を強調する日本社会

日本はもちろん「場」による集団の構成が多く存在している。

 

はっきりいえることは、場、すなわち会社とか大学とかいう枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっていることであって、個人のもつ資格自体は第二の問題となってくるということである。

 

なぜ日本は「場」がが支配しているのだろうろうか。

それは日本人が属している場所がすべてだという考えが大きいからだ。

 

「会社」は個人が一定の契約関係を結んでいる企業体であるという、自己にとって客体としての認識ではなく、私のまたわれわれ会社であって主体化して認識されている

 

自分が属している場所がすべてであってそこがあってこその人生ということだ。

働く場所が人生の劇場であり、その劇場から外されてしまったらもう人生もないということになる。

だから就活に失敗して自殺、過労死などが存在するのだ。

日本を覆っている「場」による支配は人間関係などにウエイトが大きく、心理的な負担があまりにも大きすぎるように思う。

 

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「場」を維持するには

なにも持たない個人が集まり、「枠」の設定によって共通の場所を維持するには二つの方法がある。

 

1.枠内のメンバーに一体感をもたせる働き。

2.集団のメンバーを結ぶ内部構造を作り、それを強化する。

 

 

会社の理念などは様々ある。そのような道徳的な部分での共感を持たせることが会社の大きな役割である。

そして会社の中での人間関係を作る。メンバーになにか役割を与え責任を持たせることなどによって集団にとどまらせることができる。

「場」を維持するということは一種の宗教にならなければならいのだ。

 

資格の差別は理性的なものであるから、それを越えるために感情的なアプローチが行われる。この感情的アプローチの招来するものは、たえざる人間接触であり、これは往々にしてパーソナルなあらゆる分野に人間関係が侵入してくる可能性をもっている。 

 

外国のような「資格」によって成り立っている場合には仕事と割り切ってできるし、私生活との区別がしっかりとしている。

一緒に働く人がすべてであり、働く場所がすべてである。

感情で成り立っていて、仲間との絆でできているものだからこそ逃げ出すのは難しいし、私生活からすべてにおいて集団の力が入り込む。

 

エモーショナルな全面的な個々人の集団参加を基盤として強調され、また強要される集団の一体感というものは、それ自体閉ざされた世界を形成し、強い孤立性を結果するものである。ここに必然的に、家風とか社風とかいうものが熟成される。そして、これはまた、集団結束、一体感をもり立てる旗印となって強調され、いっそう集団化が促進される

 

自分が属している「場」の結束が強くなり、孤立化することによって「ウチ者」と「ヨソ者」の関係ができる。

「ウチ者」には優しく、「ヨソ者」にはきつくなる関係になる。

 

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「ウチ者」と「ヨソ者」

 

なぜ「ウチ者」には優しく、「ヨソ者」にはきつくなってしまうのだろうか?

これまでの話を踏まえればだいたい予想はつくだろう。

 

日本社会は、全体的にみて非常に単一性が強い上に、集団が場によってできているので、枠をつねにはっきりしておかなければ集団成員が自分たちに、つねに他とは違うんだということを強調しなければ他との区別がなくなりやすい。そのために、日本のグループはしらず強い「ウチの者」「ヨソの者」意識を強めることになってしまう、という集団構成の質のあり方が問題であろう。

 

自分の存在している「ウチ」がすべての世界であるという考えによって「ヨソ」には強い反応をしてしまうのだ。

自分が属している集団は、全体の中の一つという考えになれば、「ヨソ」との区別も強くはならなない。

 

日本では社交性は育まれない

「枠」に囚われている日本の集団の中においては社交性を育てる場所がない。

 

すなわち、社交性とは、いろいろ異なる個々人に接した場合、如才なく振舞いうることであるが、一体感を目標としている集団内部にあっては、個人は同じ鋳型にはめられているようなもので、好むと好まざるとにかかわらず接触を余儀なくさせられ、個人は、集団の目的、意図に、よりかなっていれば社会的安定性がえられるのであり、仲間は知りつくしているのであり、社交などというものの機能的存在価値はあまりないのである。

 

「型」にはまることが第一であり、他のことはどうでもいい。

社会人になるということは自分が属する企業の色に染まっていくということだ。

だから働く仲間、理念、雰囲気は大切になってくる。

知らないうちにあなたの常識は塗り替えられ、自分が想像もしていなかった場所に行ってしまうのかもしれない。

きちんと外から見た自分という視点を持ち合わせれていないといけない。

 

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所属する集団は一つだけ

個人が集団の中に入るにはその人のすべてをささげなければならない。

だから日本の中で二つの集団に属するのは難しい。

 

もちろん個人として二つ以上の集団に属しているのが普通であるが、重要なことは、必ずそのいずれか一つ優先的に所属しているものが明確にあり、あとは第二義的な所属で、また、自他ともにそれが明瞭になっているということである。

 

属している集団の優先順位をつけないといけない。

これは知らないうちに日本人には刷り込まれている。

自分はどちらかを優先しているということを示さなければならない

 

二つ以上属していると潔癖性がないとみられてしまう。

「あいつあそこにも属している」というような感じに。

 

これは日本人なら当たり前の反応のような気がする。

だが考えてみるとこれは普通ではないのかもしれない。

 

場によって個人が所属するとなると、現実的に個人は一つの集団にしか所属できないことになる。その場を離れれば、同時に、その集団外に出てしまうわけであり、個人は同時に二つ以上の場に自己をおくことは不可能である。

 

まとめ

日本人は田舎っぺ体質がDNAに取り込まれているんだと感じる。

人間関係は閉鎖的、自分のコミュニティーしか興味がない。

こんな閉鎖的な場所で社会人は生きていかなければならない。

自分が頼れるコミュニティーの数が人生の豊さにつながると誰かが言っていたが、本当にそれはそうなんだと感じる。

日本社会においてはそれはとても必要になる。

コミュニティーを増やすこと、これが必要だ。