仕事を生きがいにするな 泉谷閑示
日本には過労自殺、長時間労働、残業、などなど問題がたくさんあります。
海外からは日本では仕事をしたくないと言われています。
バカにもされているでしょう。
もう仕事の意味を考えることをしないといけません。
米国AmazonやFacebookで働いてる日本好きで優秀なエンジニア結構出会うんだけど、揃って「日本企業では絶対に働きたくない。」と日本企業経験者含め言うのマジで大問題だと思うわ。これ解決しないとIT産業一生追いつけない感しかない。
— 東京が1番坊っちゃん in シアトル (@Aso0331) 2017年7月23日
労働環境が過酷になればなるほど、その業種に必要な能力の人ではなく、過酷な環境に耐えられる人が増える。そして過酷な環境に耐えられることが「能力」として捉えられるようになり、その「能力」を競い合い始め、さらに労働環境が悪化する。結果、本来必要な人材は去り、職場は単なる我慢比べ大会に。
— 加藤よしき (@DAITOTETSUGEN) 2017年7月22日
現代の「仕事」とは「労働」にすり替わっており、皆が奴隷以下の存在に成り下がっています。
ギリシア人は「労働」を軽蔑しており、奴隷がするものだと考えていました。
時代は進み、すべてが豊かになったのに、現代人は奴隷になってしまったのです。
ギリシャの人々は、生きる必要に迫られて「労働」に束縛されてしまうことは、家畜のように動物的なレベルに留まるものだと考えました。よって「労働」は、人間らしい「仕事」や「活動」、ひいては「観照生活」を妨げるものであると考え、「労働」を任せるための奴隷を必要としたと言うのです。
奴隷に成り下がってしまった私達の「仕事」を一度しっかりと考える必要があります。
仕事とはなにか?
仕事とはなにか?労働とは?考えたことはありますか?
筆者は哲学者ハンナアレントの著書「人間の条件」を使って説明しています。
人間の活動は3つに分けられます。
労働と仕事と活動です。
「労働」とは、人間が動物の一種として生命や生活の維持のために、必要に迫られて行うような作業を指しています。
そこで生み出される産物は、消費される性質のもので、永続性を持たないのが特徴です。
一方「仕事」とは、人間ならではの永続性のある何か、例えば道具や作品のようなものを生み出す行為を指し、
「活動」とは、社会や歴史を形成するような政治的働きかけや芸術などの表現行為のことを言っています。
本来の仕事というのは永続性のある、価値のあるものを生み出すことという意味がありました。
消費されるだけではなくて、価値を感じれるものを生み出すことです。
しかし、現代は仕事ということをはき違えています。
価値を生み出すことをしているのでしょうか?
ほとんどが消費されるだけのものしか作りだされていません。
消費社会が作りだされてしまったので、消費さえされればいいということしか考えられていません。
だだ生きるためだけに「仕事」をするだけになったのです。
価値を生み出すことを一番に考えなければいけません。
なぜ現代の若者は悩んでいるのか?
若者で心理カウンセラーに相談する人は増えていて、若年うつも増えています。
「中年の危機」が若者に襲っているのです。
中年の危機とは心理学者のユングが作りだし、筆者はこう訳しています。
「私は果たして私らしく生きてきただろうか?」「これまでの延長線上でこれからの人生を進んでいくのは何か違うのではないか?」「私が生きることのミッションは何なのか?」といった、社会的存在を超えた一個の人間存在としての「実存的な問い」に向き合う苦悩のことです。
この悩みは普通は40代後半から60代前半辺りで起こるものだったが、
現在では、20代辺りから悩みはじめる人が多いのです。
若者としては生きる目的なぞ考えず若さに身を任せていけばいいと思うのだが、それだけじゃなにか「空虚」を感じるのだと思う。
なぜそんなにも若い人がそのような悩みを持つのか。
現代の若い世代の人々は、情報化が進んだことによって、大人たちが表面上演じている「社会的自己」すなわち「役割的自己」について、
その舞台裏の空疎な実態を、かなり早い段階から知ることができる環境にあります。
そのために、昔の世代のように楽観的で希望に満ちた将来像を描いたり、夢に向かって無邪気に進むことができにくくなっているのではないかと思われます。
大人に対してはなにも期待していないし、先が見えてしまうので、大人という存在はもう時代遅れなのかもしれません。
時代はいつも上の人が作るんではなくて、下の若い人がいつも作ると誰かは言いましたが、
言葉があらわす通り、変なたわごとを大人から聞くのではなく、若い人は自分が好きなものを追い求めることが大切なんだと思います。
ハングリーモチベーションの終焉
何か解決をしなければいけない問題を前にすると人間はハングリーな状態で解決をします。
環境的にも、経済的にも豊かじゃない状態なら人間は頑張ることができます。
現在の私たちはなにを求めればいいのかわからない状態になっています。
ただよくわからない自分の欲望を追いかけるだけなのです。
人類がハングリー・モードで駆け抜けてきたこれまでの時代を「ハングリー・モチベーションの時代」と名付けるとすれば、
「実存的な問い」が近年増えてきているのは、
この「ハングリー・モチベーションの時代」が、静かに終焉に向かいつつある兆候なのではないかと考えられるのです。
なにも考える必要がなく目の前の仕事を一生懸命頑張れば報われる時代はありました。
だが現代はどうでしょうか。
なんでも身の回りにはあります。豊かな世界になりました。
だがそんな世界になったにもかかわらず人間は欲望のままに貪欲にひた走っています。
絶対的な欠乏から解放されたはずの現代人が、なおもハングリー・モードの悪循環に陥り、貪欲に富や成功を追い求め、情報収集に憑りつかれている今日の姿は、俯瞰的に見れば、きっと滑稽な姿であるに違いありません。
現代人の悩みが多くなっているのは経済的にも、物理的にも豊かになり、生きる意味をお金や、モノから得ることが難しくなっているのです。
「ハングリーモチベーション」で進むことだけでは済まなくなった現代、
つまりこの「人間ならではのモチベーションが求められる時代」に、
私たちはいったいどのような価値観を持って、何を指針に生きていくことができるのか。
まずは自分の価値観、考え方などをしっかり吟味してみることが大切です。
それにはいろんなものに触れてみることです。
映画、人、本、旅、いろんなものを通して自分を作っていくのです。
現代人には時間がありません。日本で働いている人はなおさらです。
時間を作ることから変えていかなければいけないのです。
時間こそが全てといってもいいでしょう。
有意義病にかかっている現代人
アメリカで活躍したエーリック・フロムが作りだした言葉で「受動的人間」があります。
これは消費社会が生み出した人間です。
自分からなにかを働きかけるのではなく、周りにあるモノを受け取るだけで、
いつのまにか受け取るだけになり、受動的な人間になるのです。
外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らわすために消費社会によって生み出されて、外から注入された欲求で動いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ。
現代にはたくさんの暇をつぶす道具があります。
「空虚」というのが現代人が一番恐れていることではないんでしょうか。暇が怖い。
それを埋め合わすようにいろんなツールが入り込んできます。
するとどうなるんでしょうか?
「受動」的であることになじんでしまった私たちは、自らの内面と静かに向き合うことが、いつの間にかすっかり苦手になってしまいました。
本屋にはたくさんの自己啓発本があります。「成長しよう」「有意義に過ごそう」「楽しく生きよう」的な言葉が溢れています。
もしかしたらその言葉も「空虚」からのがれるための動機に使われているのでは「受動」と一緒なのです。
SNSなどの発達により、周りの友達が楽しそうな生活をアップしているのを見て、
勝手に自分はこんな生活ではいけない、もっと有意義に過ごさないといけないと思い
なんだか落ち込んでしまいます。
「有意義に生活しなければいけない」
というような声が溢れています。
周りの声に焦らせるのなんて意味のないことです。
自分が楽しめることが一番大切なことです。
自分という軸を作ることが必要です。