日本人はいつから働きすぎになったのか
過労死・過労自殺・働きすぎ。
最近になりこの言葉を多く聞くようになった。
なぜ日本人は働きすぎてしまうのか。
そこには日本人の「勤勉性」という思想・哲学が大きくあることが問題である。
著者も言っているが、なぜ「勤勉」ではないといけないのか、なぜ「怠惰」ではいけないのか?
まずはこの根本の部分を疑う必要が大きくあるのだ。
現代の日本人は「生活」があるのだろうか?私たちは「生存」しているだけではないだろうか?
明治時代から今年で150年経ったが、今の日本は先進国とは言えない状況になっている。
日本的な働き方の限界まで来ていると言える。
一度きちんと自分の働き方を見て、これは間違いじゃないかと一度立ち止まる機会にこの本を紹介したい。
資本主義の正義=勤勉性
資本主義は勤勉に働くことが一番大切だと言って来た。
経済学者のウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の有名な著書があるが、その中でウェーバーが言っているのは簡単に言えば、プロテスタントの節約、禁欲が資本主義を成長させたということだ。
すなわち、ウェーバーが16、17世紀における西ヨーロッパのプロテスタントに見出した「資本主義の精神」とは、言って見れば、「怠惰」をゆるさない思想であった。すなわち、怠惰を排除して、「勤勉」を強いる思想である。
この勤勉こそ正義というのが資本主義の精神であるのだ。
だからこそ、勤勉に働いていれば良いし、正解なのだからみな一生懸命に働く。
二宮尊徳という人物がいる。
日本人なら皆知っているだろう。
本を読みながら歩いている像を頭に浮かべることだろう。
この人物は親を亡くし、若い時から苦労して畑を耕し、働いていた。
そして村をよくするために農民たちと協力して農作物を作った。
尊徳はいろんな住民のモチベーションを与えてうまく働かせることがうまく、村人を勤勉にさせることに期待していたような人物だった。
尊徳は明治政府が国民たちを勤勉にするために利用された人物でもある。
この時代は、急速な近代化の中で、日本という国家について、あるいは日本国民という存在について、アイデンティティの危機が生じていた時期であった。
二宮尊徳が評価されたのは、第一に、本人が「勤勉」であったこと、そして「勤勉」を説いていたことであった。近代の資本主義社会では、封健社会以上に、「勤勉」が重視される。
このように尊徳を利用して、国民たちを勤勉にさせるのが目的だったのだ。
内村艦三が「信仰を経済に応用したのである」と言っているがまさにそうなのである。
農民たちはのんびりと農業に励んでいたが、この明治政府によって新たな「勤勉」というイデオロギーによって必死に働かざるを得なくなってしまったのだ。
日本的経営とは従業員の「参加意識」である
高度経済成長に入り日本はさらに従業員の意識を高めるために日本的経営を作り出した。
この仕組みで日本は先進国まで登りつめた。
この仕組みは日本独自の素晴らしい仕組みだと思われるかもしれないが、本質は従業員を勤勉に働かせるための仕組みだというところだ。
日本には「シューカツ」というのがあるがそこでよく聞かれる個性という言葉。
その個性とはなんなのか?
それは企業に絡めとられる「個性」である。
さて、企業が労働者に求める「自発性」とは、基本的には、自立した個人に期待される、文字どおりの自発性である。
一方で、そうした「自発性」は、あくまでも企業から求められる「自発性」であって、いわば、企業のための「自発性」、あるいは、企業に絡めとられる「自発性」である。ということであれば、やはりこれは、真に自立した個人によって発揮される「自発性」だとは言いがたい。
このように著者は絡めとられる「自発性」だといっている。
そして真の自立した個性にはなれないのだと。
結局は過労死などは会社から労働しろと言われるがそれだけでは自殺まで追い込まれることはない、他の人からしたら逃げ出せばいいのにと思われるが、結局自殺に踏み出してしまう人は自発的に忠誠を尽くしてしまうのだ。
最後は個人の意思までもが企業に絡めとられてしまうのだ。
合理的非合理という考え
今までの日本は「勤勉性」に大きく支えられていた。
これこそが日本を大きくした。
しかし、その「勤勉性」を支えているものは、結局はなんなのか考えたことがあるのだろうか?
それは明治時代から作られた考えであり、イデオロギーであり、「非合理的」な考えなのである。
ウェーバーのいう「資本主義の精神」を支えていたのは、カルヴァニズムという「非合理的」な宗教であった。
同様に、江戸期における日本人の「勤勉性」を支えていたのも、浄土真宗という「非合理的」な宗教であった。
明治期においては、日本人の勤勉性を支えるものは、ある面においては「修身」というイデオロギー教育であり、また他も面においては、「生存競争」という現実であった。
それらを支えていたのは、いずれも、「非合理的」なものであった。
「勤勉性」とは「数百年間の特徴」でしかないのだ。
だからこれからはなぜ「怠惰」ではいけないのか?
「怠ける」哲学を持つことが必要になる。
その「怠けた」時間こそが新たな自分を作り出す時間となる。
これから人生100年時代に突入し、日本的な働き方はどんどん変わってきて、新たな学びという要素がとても重要になる。
「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言葉があるがそのくらいの態度で人生を生きるくらいがちょうどいいのかもしれない。
あなたはもっと「怠ける」ことが必要である。