今生きる世界は、幻想で成り立っている。価値と使用価値の話。
この世界は幻想で成り立っています。
世界を作っているお金というのは幻想です。
お金とは、よくわからないものでお札は目には見えるけど銀行の口座にあるものは数字の羅列だけです。
はっきりと言いますが、お金とは幻想であり、お金で測れる尺度はクソであるということです。
お金とはただの尺度であることを現代人は忘れてしまっています。
お金に惑わされることで本当の価値が見えにくくなっています。
お金という尺度がなぜ幻想と言えるのかを説明していきます。
経済の価値とは使用価値ではない。
経済学者のリカードという人は、使用価値と富は別の世界で生まれ、経済は使用価値を切り捨てたところで展開していると言っています。
これはどういうことか水とダイヤモンドの例を使って説明します。
水は人間に絶対に必要なモノです、ダイヤモンドは人間に必ず必要ではなく、使い道もあまりありません。
しかし、経済的に見れば、ダイヤモンドは水よりも価値が高いのです。
おかしなことだとは思いませんか?
人間に絶対に必要なものは価値が低く、人間にとって必ずとも必要ではないものが価値が高いのが資本主義です。
不足しているモノは価値が高く、多いものは価値は低いのが資本主義です。
モノの価値はそれ自体が決めるのではなく、人間との関係によって決まります。
一次産業は今では高齢化が進み、給料は安く、きつく、休みがなく若い人がやりたがらない仕事になっています。
しかしみんなが儲かる仕事だけをして、農業をする人がいなくなるとどうなるでしょうか?
資本主義から見れば農業には価値はありません、だってお金をあまり生みません(これからの時代食糧不足などを起こすことがあるとすれば価値は上がりますが)。
しかし、人間にとって見れば食べるモノを作っているわけですから一番重要だと言えます。
経済から見れば価値はないものは、人間にとっては重要であることが多いのです。
一次産業は絶対に必要な職業と言えます。
なぜ使用価値が資本主義では評価されないかというと、使用価値とは誰にでも一緒ではないからです。
水をたっぷり飲んだ人には水はあまり必要ありませんが、喉が乾いている人にとってはとても重要です。
このように使用価値は経済的に見ると合理的ではない価値であると言えます。
それに比べダイヤモンドのように使用価値を無視して、価値だけを評価するのは合理的な価値と言えます。
この合理的な価値を持って経済は成り立っています。
経済が行きすぎた世界で僕らはどうすればいいか?
商品には値段がついていてそれは当たり前のようになっていますが、本当はその値段も絶対的なものではありません。
商品には値段があり、価値があるんだとみんなが思うことで成り立っているのです。
経済的に見ることは合理的になんでも考えなければいけないから、こういう価値があるんだと想うことでできあがるのです。
結局資本主義というものは幻想なのです。
ナショナリズムと同じで幻想です。
実体がないのに価値が作られる。
幻想の貨幣に私たちは踊らされています。
本当に人間にとって必要で、価値のあるものはなんなのかを見つめ直すことがこれから必要になっていくのではないでしょうか。