日本にとっての資本主義とは
資本主義にはいろんな国の形があるということを私たちはもっと認識しないといけないのかもしれない。
西洋に染まった資本主義に世界は飲み込まれているが、中国のようにどんどんアジアも経済国として大きくなってきている。
そうすると経済のルールも大きく変化するのかもしれない。
今資本主義は行き詰まりを見せているが、それは西洋の資本主義の行き詰まりが原因なのかもしれません。
だとすると、それぞれの国の資本主義をうまく出して調和をとって世界を動かして行くことが次の時代には必要なのかもしれません。
だからこそ日本と西洋の資本主義のルールの違いを知ることが大切です。
西洋の資本主義を知るにはキリスト教を知ることが必要です。
キリスト教が大きく動いたのはルターによって宗教改革が起き、プロテスタンティズムが生まれてことによって西洋の資本主義は大きく動き出しました。
プロテスタンティズムはルターが発端となり生み出され、キリスト教はその頃教会が腐敗しており、ルターは聖書通り行うことによって誰でも救われるということを教え、一般人にも救いに手が差し伸べられました。
それは日本も一緒で、日本では仏教が取り入れられていたが誰でも救われるわけではなく、修業を積んだ者しか救われることはなかった。
しかし鎌倉新仏教が取り入れられ一般人も普段から念仏を唱えることで救われるように変化した。
この西洋と日本の一般人が宗教によって日常の生活が宗教の実践する場となることが社会経済に重要な影響を与えたのです。
キリスト教と仏教の違い
キリスト教は予定説によって救われる人はもともと決められています。
どんなに努力しても絶対に救われますとはわからない。
だから私こそは救われる人間なのだから禁欲的な生活をして、人類に貢献することをしているのだ、というような思考になる。
人類は神様が作ったから、何かを物や人を崇拝することは嫌われているから、信者は他人にはあまり興味を持たず、人類や公共に貢献する考えがあります。
仏教は自分の努力によって救われることができ、輪廻から脱却することがゴールです。
それには身近な他者を大切にして、日々の生活を充実することが修行となり救いになります。
だから、日本人には過剰に他人に対する興味があり、目もあるのです。
これにはいいところも悪いところもあります。
日本では出る釘は打たれがちになってしまい、みんな同じではないといけないような思考になってしまいます。
ある程度はこれは仕方がないことなのかもしれません、
日本人に生まれこまれたDNAと言えるでしょう。
まとめはこのようになります。
キリスト教の世界では、被造物の神化の否定から身近な他者への関心は禁止され、また神の最大の関心事はその創造の成果の中心にある人類のあり方にあるとされた。
このため神の栄光を高めることを目標とする人々の宗教生活では、人類の福祉や公共の厚生が常に中心的な目標とされ、自由な個人と公共世界からなる世界観が成立した。
しかし易行化以後の日本において、人々がその世俗的な社会的経済行動を行うにあたって意識したのは、身近な他者であって、人類や社会全体のあり方、公共世界が問題とされることはほとんどなかった。
日本の世界観は人類や公共世界でなく、身近な他者からなるのである。
西洋と日本で宗教によって違いがこんなにも生まれます。
これが正しいという経済はないのかもしれません。
いろんな国の経済感覚を組み合わせることがこれから必要になるのかもしれません。
だから、西洋だけが正しい、と考えることをやめなければいけません。
自分たちの国の経済の感覚も大切に持っておくことが大切でしょう。